特定胚等研究専門委員会(第93回) 議事録 抜粋

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科学技術・学術審議会 生命倫理・安全部会 特定胚等研究専門委員会(第93回)

1. 日時 平成28年8月29日(月曜日)9時59分~12時12分
2. 場所 文部科学省17階 研究振興局会議室
3. 出席者
(委 員)高坂主査、髙山主査代理、阿久津委員、浅井委員、石原委員、稲葉委員、佐々木委員、知野委員、中村委員、奈良委員、花園委員、三浦委員
(事務局)原課長、杉江安全対策官、藤井室長補佐、神崎専門職
(有識者)小田淑子教授(関西大学文学部)、八代嘉美特定准教授(京都大学iPS細胞研究所)
4. 議事
(1)動物性集合胚の取扱いに関する検討について
(2)ヒトES細胞に関する指針の見直しについて
(3)その他

議事録該当部分抜粋

【高坂主査】 それでは、定刻となりましたので、ただいまから第93回特定胚等研究専門委員会を開催いたします。
まず、議事に先立ちまして、事務局の方から、委員の出席状況と配付資料の確認をお願いいたします。

【藤井室長補佐】 まず、委員の先生方の出席状況でございますが、本日は、神里委員、斎藤委員、永水委員から、御欠席との御連絡を頂いております。

続きまして、配付資料の確認をさせていただきます。本日の資料としましては、右上に番号を振っておりますが、議事次第のほかに、資料93-1から93-4までの4種類、参考資料1から3までの3種類、さらに、机上配付として、「ヒトの細胞を含む動物胚を用いた研究の次の段階」という、NIHの仮訳したものの資料をお配りしております。さらに、ドッチファイルに入っております、参考資料集がございます。資料に不足などございましたら、事務局までお申し付けくださいますよう、お願いいたします。

なお、御発言の際には、近くのマイクのスイッチを入れて御発言いただきますよう、よろしくお願いいたします。
頭撮りにつきましては、ここまでとさせていただきたいと思います。
事務局からは、以上でございます。

【高坂主査】 ありがとうございました。
それでは、議事に入りたいと思いますが、今日は、本当に足元の悪いところをお集まりいただきまして、ありがとうございます。台風のことを心配していたのですけれども、明日になってよかったというか、今日の会議が開催できてよかったと思います。

本日は、議題(1)の動物性集合胚の取扱いについて、倫理的、社会的観点での検討に当たりまして、日本人が持つ宗教観や倫理観、また、日本人の動物性集合胚研究に対する意識調査結果等について御説明いただくということで、それぞれ、関西大学の小田教授、京都大学の八代准教授にお越しいただいております。ありがとうございます。本日は、どうぞよろしくお願いいたします。

また、本日は、事務局から、ヒト幹細胞研究に関するNIHのガイドラインの拡大案に関するパブリックコメントの概要について、それから動物性集合胚の取扱いに関する規制の経緯について、御紹介、御説明いただくことにしております。

まずは、事務局の方から、その辺のことを御説明願います。机上配付ですね。【杉江安全対策官】 机上配付のみでございます。前回、神里先生の方から情報提供いただきまして、アメリカのNIHの動向などもお話しいただいたところでございまして、当時までは、8月3日でございましたけれども、それまでは特に動きがないということでございまして、ちょうど8月4日にNIHの方でパブコメが始まっていますので、その情報だけ、御紹介させていただきたいと思います。

机上配付させていただいている1枚紙でございますけれども、上下、上は我々事務局の方で仮訳をさせていただいたものでございます。現在、キメラ研究の政策的枠組みのドラフト版という形で訳させていただいていますけれども、ヒト幹細胞研究に関するNIHガイドラインの拡大案ということで、現行の幹細胞に関する禁止事項が左側のような形でヒト以外の霊長類胚について規定されているところでございますけれども、現行は、ヒトES細胞又はiPS細胞をヒト以外の霊長類の胚盤胞期の胚に導入することを禁止しているということと、あともう一つ、生殖細胞系列に寄与し得るヒトES細胞又はヒトiPS細胞を導入した動物の繁殖を禁止というような形になっているところでございますけれども、現行の拡大案といたしまして、より早期(前胚盤胞期)のヒト以外の霊長類の胚まで制限を含むように拡大といったもの。そして、生殖細胞系列に寄与し得るヒト細胞を導入した動物の繁殖についても禁止を拡大するという形になっているところでございます。

2ポツは、NIHの運営委員会によって検討されるキメラ研究の範囲案ということでございます。こちらについても、初期胚と神経への寄与/効果について、記載をしているところでございます。実際にこれは、2009年にガイドラインが作成されて、昨年9月に、その資金提供に関する停止というような形が、NIHから通知されたというところでございます。それを、今年の8月4日に改正案が発表されまして、現在、9月6日までの期限でパブリックコメントが行われているということでございます。

以上でございます。

【高坂主査】 ありがとうございました。
例えば、胚盤胞期というものから更に前の段階の前胚盤胞期にまで拡大させるということで、どういう影響がまず考えられるのでしょうか。

【杉江安全対策官】 ここのところは、まだ我々のところでも情報を把握した範囲でございますので、これから、実際にこれが確定した場合に、その範囲の研究は実質的にはNIH の方から助成されなくなるということでございますので、拡大した研究の部分だけ、そういった研究者に対しては、影響が出る可能性や、各国にも影響がある可能性があると考えております。

【高坂主査】 阿久津委員、研究者の立場から、何かコメントございますか。

【阿久津委員】 これは、1ポツの1番目ですけれども、以前までは胚盤胞期と断定的にしてあったのですが、ただ、実質的なところ、胚盤胞期前の分割期の胚でもキメラの作成はよく行うことですので、それも含めての話だと思います。それを入れるというのが、恐らくは目的なのかとは思います。

【高坂主査】 アメリカの方ですが、このNIHの動きに対して、何か御質問ございますでしょうか、今の情報提供に関して。
どうぞ。

【阿久津委員】 こういう決まりになった詳細は分からないのですけれども、ただ、今の研究の進展を多分に反映させているのだと思うのです。例えば、1ポツの1番目はそうなのですけれども、1ポツの2番目、繁殖というところで、前回まではヒトES細胞・ヒトiPS細胞と断定的にしています。現在、例えば、始原生殖様の細胞や、いわゆるナイーブ型の細胞などこれまでのES・iPSという定義付けされていたのとはまた少し異なる性質の細胞というのも含まれるので、それも含めた記載なのではないでしょうか。いわゆる生殖細胞に分化し得るような類いの細胞を網羅するように入れてきたように思います。

【高坂主査】 そうですね。
資料93-1の方の規制については、今、終わったところですかね。

【杉江安全対策官】 資料93-1の説明はこれからでございます。

【高坂主査】 よろしくお願いします。

【杉江安全対策官】 動物性集合胚の取扱いに関する規制の経緯ということでございます。今まで、資料の中でもそうですけれども、明確に、この会議の中で、経緯を含めて、御説明が若干不足していたところ、又は、既に承知されているところだったかとは思いますけれども、改めてもう一度、新しく入っていただいた委員の方もいるということで、改めて整理をさせていただいているところでございます。

基本的に、この資料93-1でございますけれども、規制の経緯については、この1枚紙です。四つの丸で示させていただいたところでございます。平成11年12月、「クローン技術による人個体の産生等について」ということで、「産生されるキメラ個体についてヒトという種のアイデンティティを曖昧にする生物を作り出すものであり、クローン技術による人個体の産生を上回る弊害を有するため、罰則を伴う法律等によりその産生を禁止するための措置を講ずるべき」とされており、動物性集合胚がクローン法の対象になっているということでございます。

一方で、「ヒト胚性幹細胞を中心としたヒト胚研究に関する基本的考え方」、これは平成12年3月の科学技術会議の生命倫理委員会の小委員会において、「動物性集合胚は、動物を利用して移植可能なヒト由来の臓器を産生する研究として有用性が認められ、ヒト由来の組織の発生箇所の制御が可能となった場合には、個体を得て、移植用の臓器を産生することに道を開く可能性があるが、現時点では発生する組織の制御という観点からは未成熟なものであり、個体産生については、これを禁止するための措置を講じ、技術の動向を見ながら慎重に対応する必要がある」とされたところでございます。

さらに、平成12年11月でございますけれども、参議院の文教・科学委員会の中で附帯決議がされているところでございますが、「人又は動物の胎内に移植された場合に人の尊厳の保持等に与える影響が、人クローン個体若しくは交雑個体に準ずるものとなるおそれがあるかぎり、人又は動物の胎内への移植を行わないこと」「事前に十分な動物実験その他の実験手段を用いた研究が実施されており、かつ動物性集合胚を用いる必要性・妥当性が認められる研究に限ること」とされたところでございます。同じように、衆議院でも同旨の附帯決議がされているところでございます。

これらを踏まえて文部科学省が作成した指針案に対する総合科学技術会議の答申(諮問第4号)においてでございますけれども、「動物胎内での移植用臓器の作成研究など有用性が認められるとともに、基本的に動物であることから、個別審査を前提に研究のためにこれを作成し使用することは認めてよい」といったもの。そして、「動物胚と集合させるヒトの細胞について考えれば、その細胞が集合後どのような経過をたどるか現時点の知見では明らかでないことから、その細胞を取り扱える期間はヒト胚の14日に準じたものにすることが望ましい」とされたことから、現行の内容となっているところでございます。

また、これらの考え方のところの記載でございますけれども、次のページ以降に、幅広く記載をさせていただいております。これは参考資料でございます。動物性集合胚の取扱いに関する記述でございますけれども、平成11年から、また、諮問の内容についても、もうちょっと詳しく示させていただいているところでございます。

また、関連する法令ということで、参考2として、5ページ目にクローン法に関係する記載のところと、あと、7ページには「特定胚の取扱いに関する指針」の抜粋部分を記載させていただいているところでございます。 このような現状を踏まえまして、昨年度まで行われた科学的な観点からの検討を踏まえて、改めてこれから、倫理的、社会的な観点からの検討を行っていただき、目的の拡大とか、また移植の是非について、御検討いただきたいというふうに考えております。

以上でございます。

【高坂主査】 ありがとうございました。新しく委員になられた方もいらっしゃいますので、動物性集合胚の取扱いに関する規制のこれまでの経緯といったものと、これを踏まえて、今現在、こういう観点で我々は議論をしているのだというお話をしていただきました。

これまでの経緯について、改めて何か御質問等ございますでしょうか。
どうぞ。

【阿久津委員】 これまで作業部会でもずっと話し合ってきたことですけれども、動物性集合胚の目的というところで、単純にこれまで、移植をするための臓器を作るというのが主眼に明記されていたわけですけれども、この領域の研究の進展から、他にも研究上の意義があるのではないかと話し合ってきたとは思います。

先ほどの、それに関連する用途についてのことなのですけれども、机上配付のところでの2ポツで、NIHでは、今までは全面的にヒト多能性幹細胞をヒト以外の脊椎動物の胚へ導入する研究については予算を出さないということだったのですけれども、今回は「げっ歯類を除く」というふうに明記されています。これについても、最近の科学研究で新しいヒトの多能性幹細胞というところでの検証が、いわゆるマウスを使ったような多能性の検証ということで動物性集合胚法がある意味とても重要な方法になってきているというのが論文でも示されています。この点についても以前、作業部会でも十分そういうこともあり得るのではないかということで話し合ってきました。それがNIHの今回の改正案には反映されていると思います。

【高坂主査】 ありがとうございました。
ほかに何か、御質問ないでしょうか。よろしいですか。

それでは、いよいよ議事に入りたいと思います。きょうは、先ほど申し上げましたように、小田教授から、まず、お話を伺いたいと思っています。小田先生は、現在、関西大学の文学部で宗教学の教授をされていらっしゃいます。御専門はイスラーム教で、その律法あるいは倫理の研究との比較で、欧米や日本の宗教倫理も研究されていらっしゃいます。 本日は、日本人の宗教観等に基づいた倫理観について、お話を頂けるというふうに思っております。動物性集合胚とどう関係するのか、私も非常に楽しみにしておりますので、先生、どうぞよろしくお願いいたします。

【小田教授】 小田でございます。専門はイスラームです。イスラームは社会に非常に積極的に関わる宗教で、御存じのように、律法があり、結婚や相続にまで口出しをする宗教です。そういうものと比較したとき、なぜ日本には律法がなくて済んでいるのかという疑問を抱き、そういうところから日本の問題に関心を持ちました。日本の宗教といったとき、実は難しいのは、仏教の研究者は仏教だけで日本の宗教史を語り、神道の研究者は神道のことしか触れません。ところが、現実には、日本ではこの両方が相まって存在しているわけです。その関係をどう捉えるかというところに問題があると思います。

本日、概要のメモを配らせていただきましたけれども、私はシカゴ大学で、宗教学とイスラームの研究をしたのですが、そこに、ジョセフ.M.キタガワ(北川三夫)という日本人の先生がいて、この先生が、労働の分業をもじって、日本人は仏教と神道、そして、キタガワは儒教も入れるのですが、複数の宗教を分業していると説明しました。神仏習合の方が日本では知られています。神仏習合と言うと、どちらも区別がつかないと思いがちですが、寺と神社は、皆さん、ぱっと見たら分かるわけです。神道と仏教が混交、折衷した神仏習合の部分もありますが、同時に区別もされている。大事なのは、日本人が神道と仏教という全く異質な両方の宗教に属していて、矛盾に感じていないことです。これは、一神教の人にとっては信じられない。異質な宗教に同時に属するなんて、一神教ではあり得ない。でも、日本人にとっては、それがごく自然で、しかも両者を場面、場面で使い分けています。ここに日本の特徴があると思います。ただ、キタガワはこの説明を1960年代に出したのですが、日本の仏教と神道の関係者や研究者たちには不評で、日本では余り広まりませんでした。大半の日本人は何の矛盾もなく神道と仏教に関わっているが、研究者の方がその実態を上手につかめなくて、仏教は仏教だけで説明するというのが、今までの在り方だと思います。

この問題を私は考えてみたいと思っています。キタガワは少し古くて、日本の宗教の基盤をナショナル・コミュニティと言います。これは一つ間違うと国体と訳される言葉なので、そこに私自身の抵抗感があって、私は日本的宗教土壌(religious soil)という言葉を使いたいと考えています。要するに、日本では仏教と神道を基盤とする宗教土壌があり、たくさんの新宗教もその土壌に根づいている。この宗教土壌に注目した人は、実はキリスト教の人たちです。日本の宗教土壌は、キリスト教にとっては酸性土壌であり、何度、苗を植えても枯れてしまう。これだけミッションスクールがあり、キリスト教の結婚式もする。でも、キリスト教徒は少ないのです。キリスト教の方の戦略を聞いたことがありますが、日本のように高度な教育が普及して西洋化が進んでいるのに、なぜキリスト教が広まらないのかというのは、キリスト教の方でも大問題で、すごくレベルの高い宣教師を送り込んできた。それでも、日本人のキリスト教者は増えない。そうところが現実にあるわけです。この問題を考える上でも、日本の宗教土壌というものに注目したいと思いました。

そこで、(2)のところで書いたのですが、この宗教土壌は、実は私たちがふだん暮らしている日常社会にあります。しかし、厄介なことに、日本人はこれを宗教と認識しておりません。ですから、日本人の大半の人が、自分は無宗教だと言い、日本は世俗社会だと言います。確かに、教育の場で見る限り、戦後日本は宗教教育を一切していない。これがやはり、宗教という概念に対する無理解あるいは誤解が一般に広がってしまっている原因だと思っております。学校では、世俗倫理だけを教えています。理性に基づく法律と世俗倫理です。だから、日本は世俗社会で世俗倫理が強いと思っているところに、宗教土壌というものが色を付けているわけです。区別がし切れてない。キリスト教の場合は、神が出てきたら宗教だし、理性が出てきたら世俗だと、はっきり分かれますが、日本には超越神がないために世俗と宗教の区別がしにくいということが、大問題としてあります。

では日本に全く倫理規範はないのか、あるいは逆に、世俗倫理だけで本当にやっているのか、理性に基づく倫理が本当に根づいているのかというと、決してそうではない。確かに、日本人は一神教の神を畏れることはありませんが、他人の目を恐れる。今の学生たちに、「あなたたち、本当に自由で、個人で判断して行動できるか」と聞くと、びくっとします。要するに他人の目を気にしている。これは、ルース・ベネディクトが『菊と刀』の中で、欧米の神に対する「罪の文化」に対して、「恥の文化」と言ったことと通じます。ここに、日本の宗教倫理あるいは一般倫理のある種の規範性があります。人の行動を規制して、時には強制する力を持つ。それ自体は神でも仏でもないというところがややこしいところですが、決して日本の倫理は世俗倫理だけではないと、私はここで言っておきたいと思います。

次に、日本人の宗教意識についてごく簡単に説明します。あなたの宗教は何かと聞かれると、ほとんどの人が無宗教だと答えます。しかし、欧米で無宗教ないしは無神論といいますと、これは主義・主張できちんと説明ができないといけない。初詣に行き、葬式ではお寺と関わるけど、無宗教であるというのは、欧米人に対しては説明として不十分です。ところが、日本では曖昧なままで通用するというのが、事実です。その理由としては、神道は実は古代宗教で、先住民の宗教にむしろ近いものでして、地域の宗教、あるいは国の宗教なのです。そこの地域に属している限り、神社に属する氏子ですが、個人の宗教を問われると、私の宗教は神道ですと胸を張って言う人は、意外と少ないと思います。それは、例えば、京都だったら祇園祭だし、ここだったら三社祭なんかがありますけど、あの祭りに熱中する人たちに、
「あなたの宗教は?」と聞いたら、「神道」と答えるとは限らないと思う。それぐらい神道というのは、宗教としては認識されていないのです。ところが、世界基準で言えば、これは宗教として認めなければいけない。ここに、矛盾があります。

それから、仏教は世界宗教で、キリスト教と匹敵する宗教で、個人の宗教ですが、日本では、江戸時代以来、家の宗教になってしまっております。これは、皆さん御存じのように、「あなたの宗教は何か」と聞いたら答えられないけど、「家の宗教は?」と聞き直すと、家は何宗で、お寺がありますと言う人が多いわけです。それゆえに、自分自身、初詣にも行くし、死者儀礼では仏教にも関わるけれど、個人の信仰としては何もないというのが、今の日本人です。

これには背景があります。明治時代に、特にプロテスタント・キリスト教がモデルになるのですが、宗教とは、教え、特に普遍的な教えがあって、個人の信仰がきちんと自覚されている。自分が特定の教会あるいは教団に属しているという帰属意識を持っていることだと考えています。啓蒙日本人は宗教をキリスト教モデルの外来概念に結び付いてしまって、身近である神道は宗教ではない。ときには、仏教さえ宗教ではないという人がいます。実際にこの宗教の定義によって明治政府がとったのが、「神道非宗教論」。私は、これは意外と現代まで影響を及ぼしていると思っています。神道は宗教にあらずと政府が堂々と言ったわけですから、大半の日本人が、神道は宗教ではないと言います。これは、政府の目的としては、キリスト教を解禁して、近代国家である以上、信仰の自由を認めなければいけない。布教の自由と、ミッションスクールの設立と、キリスト教信仰者にも自由を認める、これが近代国家の基本であると。しかし、同時に明治政府は、現人神としての天皇崇拝をナショナリズムの柱に据えましたから、全日本人に天皇崇拝を強いたいわけです。そのときに、どうすれば矛盾しないか。私に言わせれば非常に姑息ですが、キリスト教徒であることは自由であるし、信仰の自由は守っている。しかし、「あなたが日本人である限り、天皇を拝みなさい」、これは矛盾しないと主張したわけです。そのために、神道は宗教ではないと決めた。、宗教学的に今日のグローバルスタンダードからすれば、これは間違っています。

それからもう一つ、明治時代の福澤諭吉に出てくるのが、宗教に対する否定的な見解。要は、科学の方向にシフトしていっていて、宗教はどこか迷信であると。科学が発達したら宗教は要らなくなるという啓蒙啓蒙主義的な宗教観が、まだ日本にあるような気がします。それで、今日の日本人は、自分は無宗教だと言ってもそれを恥ずかしいことだと思っていない。ところが、一部のキリスト教の社会では、宗教がない人は無教養だといった捉え方があります。日本人はそのことに全く気づいていないですね。同じことなのですが、日本では基本的人権としての信仰の自由を知っていますが、信仰が個人の人格にとって本当に重要な要素だということを理解できていないことになります。これは他人の信仰に対してもいいかげんなところがあるわけでして、今後、ムスリムなどの移民が増えてきたときに、問題を起こすかもしれません。

次に神道について。神道には基本的に教えはありません。誰も聞いたことないはずです。あるとすれば、清めです。清さ、誠実さが大事で、汚れたら、穢れを祓う。それと、これは私も最近気が付いたのですが、日本の神々は、名前を持つ神が結構多い。あるいは、岩そのものとか、自然そのものの場合でも、ただの一般的なものよりは、大神山だったら、大神のこの山、この岩が神なのですが、名前を意識していない。神社に行ってどの神を拝んできたかと尋ねると、ほとんどの日本人が答えられない。答える必要も感じていない。神の名前を知らないことは、これもまた一神教ではあり得ない。ただ、日本人は神も仏も一般名詞化してしまう。これも一つの日本の特徴だと思います。

仏教の教義は各宗派ごとにあります。悟りを求めることが基本ですが、江戸時代に家の宗教になって以来、これを神仏習合と言った方がいいのですけど、先祖を弔うという、死者儀礼を担うことになっている。仏教の教義上では、先祖を崇拝してはいけないのです。しかし、日本人は、仏を拝むと言ったとき、大日如来、弥勒菩薩、阿弥陀仏ではなくて、先祖の位牌を拝んでいる。その仏さんの実体は先祖であるところが、日本の仏教です。だから、仏教も、とりわけ現代では、教義をきちんと教えていない。だから、日本人は教義を知らないということになります。

それから、日本の仏教も平安仏教から鎌倉仏教へと大きな変革を遂げましたが、プロテスタントとカトリックのような激しい争いをしていない。鎌倉仏教は旧仏教の天台や真言あるいは奈良仏教を全部つぶして新しくなったのか、あるいは対立をずっと続けたのかというと、そうではなく、重層化していった。奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教はそれぞれ性格が違うのに、重層化したままで並行して存続していく。どこの宗派に属しているかということを余り気にしないのも、日本仏教の特徴です。ただ、教義は教派ごとに異なり、禅と真宗では全く違うけれど、そのことを気にしてないというのが、日本の仏教です。

次に、宗教倫理ですが、宗教以上に難しいと思っています。それは、何が日本人の倫理になるのか。先ほど言いましたように、世間体とか世間の目が日本人の規範の一つになっていることは事実ですけど、一体何がその規範性に権威を与えているのかというのは、私もまだ明確に説明できていません。キタガワは、日本人の倫理は儒教によって担われていると説明しています。儒教は、江戸時代には明らかに武家社会を支えたし、明治時代にも教育勅語の中に強く儒教が残っていた。しかし戦後、今の時代に儒教倫理が強いとは言えないと思います。だからといって、日本は学校で世俗倫理しか教えてないのだから、理性に基づく世俗倫理だけが日本人の倫理かというと、絶対に違うわけです。理性に基づく倫理がもっと行き渡っているのなら、いじめに対してもっと発言や歯止めができないといけない。今の日本人は、大多数に従った方が生きやすいと考えているなら、それは世俗倫理とは異なる、理性に基づかない規範が、日本社会には生きている。義理人情もそうだと思います。それがあることを教えてもいいのではないか。日本は法律と世俗倫理だけが規範だとしか教えていない。だけど、現実の社会には別の規範が生きているところに問題が残されているような気が、以前からしております。

それから、もう一つ日本の倫理の特徴を挙げます。あいつは汚いとか、その考え方は汚い、あの人はきれいだと言います。きれい/汚い、これは、清めを好み、誠を好むという神道に基づく考え方で、規範です。普通、欧米を基準に倫理を考えるときは、善悪ですね。あるいは正邪、正義か不正義かという基準が一般的ですが、日本では、美醜あるいは浄・不浄(pure、 impure)といった一種の美的倫理、これが結構強いような気がします。後でいますけれども、最先端の医療に関しても、善か悪かというのは弱くて、何となく気持ちが悪いといった非常に感情的な反応を示します。正しいか、正しくないか、良いか、悪いかという基準で日本人は余り考えてなくて、非常に情緒的に示してしまう。そこのところも、こういう美的倫理と重なるところがあるような気がいたします。

次に、実は仏教と倫理の関係もややこしいのです。慈悲があるということを仏教の人たちは仏教を擁護するような立場で言われますが、仏の慈悲が日本の倫理に強く影響を与えているということは少ない。これは仏教は基本的に出家者の宗教だからです。日本では、奈良仏教のときは悲田院や施薬院を設けたし、ごく最近、忍性という真言宗の僧侶が、奈良でハンセン病患者の保護をしていた。、これは、奈良のどこかで特別展があるというニュースで気が付いて加えました。駆け込み寺のような例外もあるのですが、病院や孤児院など弱者救済のための社会施設は、キリスト教に比べると、日本仏教はほとんどやらなかった。真宗は大教団だけど、一切、そういう事業をしなかったわけです。これも日本仏教の一つの特徴ですね。 仏教の場合、この世は少々良くても悪くても浮世であり、輪廻の中にいる限り、悟りに至っていない。決定的なのはその輪を出ることだというのが仏教の教えです。ですから、社会の良い悪いは相対化されてしまうので、社会倫理が弱いのです。仏教は一度の人生で成仏はできなかったので、生まれ変わって、より良い人生、より成仏に近づくように、そのためにはより良いカルマを積んでおきなさい、というのが原始仏教の教えです。ここに仏教も倫理と強く結び付いたのですけど、日本仏教では、死んだら仏さんになることになってしまった。これはゴールなのです。次の人生(後世)があるわけではないので、仏教の倫理がいっそう弱くなったと感じます。

ただ、最近、東日本大震災の後になって、宗教者、主に新宗教の信者とキリスト教徒の人が率先して、仏教もおずおずと、いろんな社会活動を始めています。とりわけあのときは津波による死者が多かった、まだ行方不明者もいるという状況で、死者を弔い、遺族、あるいは行方不明者を抱えた人を慰めるということに関しては、宗教は役割を持っているのだと再評価されつつある。今まで、葬式仏教はどちらかというとバカにされてきたけれども、葬式仏教でもいいのではないかという居直りも少しあります。もう一つは、日本全体で考えると、いわゆる地域社会、それから家族制度が非常に弱体化している。これはいろんなところで明らかになってきています。このように、日本の社会が変化していくときに、地縁・血縁ではない人たちが新しいネットワークを作って助ける。これがボランティアだと思います。そういうものが少し日本に見えてきたのも、事実です。

最後に、残った時間で、ほんの少しですけど、生命倫理と宗教、一神教との違いについて話します。一神教との違いは非常に大きいです。仏教にも神道にも独自の生命観や死生観はありますけれども、これが倫理とは結び付いてこないのです。キリスト教の場合は、神がいて、倫理ということが非常に強く言われるけれど、日本ではそうでもない。一神教では、人間と自然を区別する。これはよく言われることです。いわゆる動物には魂も信仰もないから、ペットの葬式は言語道断ですね。また、ロボットは機械で、心はない。ただし、今のように日本のアニメが欧米で子供の間啓蒙啓蒙や大人の間に人気が出てくると、アトムのように心があるロボットをどう理解しているのか、変化が生じたのかもしれません。ただ、20年、30 年前は、アトムが心を持つというのは日本人の子供にとってはごく当たり前のことが、欧米の子供には、なぜロボットに心があるのかと、すごくいぶかられたと聞きました。

仏教も「山川草木悉有仏性」だけではないのですが、日本人はこれが大好きでして、動物などを大事にする。今は行き過ぎだと思いますけど、葬儀から何から、やるわけですね。それから、日本の場合、道具に対する供養、人形の供養だとか、道具の供養というのも、よくやります。これは、どちらかというとアニミズム的です。こういう供養は寺か神社でなされますが、神道の一部と言っていいのかもしれませんけど、神社で祀られているとは限らない。自然を大事にするようでありながら、キリスト教と比べたとき、人間の責任感が非常に曖昧です。

人権に関しても同じでして、私はあるときにふと気が付いたのですけど、インドのように生まれ変わりを言う場合、要するに、前世の報いが今回来て、今回が良かったら次が良くなるのだからと。一度限りの人生で永遠の来世が決定的に変わるというのがキリスト教です。現世が悪かったら地獄だし、良かったら天国だと。こういう人生観でこそ人権というのが本当に大事にされるとすれば、前世や後世の生まれ変わり、あるいは日本のように個人が消えて成仏するところでは、人権という感覚がやはり異なり、弱くなっても仕方がないのではないかと思います。日本では、人権教育をしていますし、学校教育のレベルで見る限り、欧米化しています。ところが、ベースにある日本的宗教土壌のところで、人権というものについての感覚が少し違っているだろうという気はします。

もう一つの特徴としては、明治時代の啓蒙主義と関連しますが、仏教はキリスト教に対抗する意識が非常に強くて、一神教ではないから、仏教の方が理性や科学とうまくなじむと自負してきたところがあります。むしろ棲み分けをしてきて、脳死問題以前は、仏教は医療に関して意見を求められても、それは医学の領域で、仏教はそれには関与しませんという、むしろそういう科学を尊重する啓蒙的な態度をとり続けてきた。それではだめだと言われたのが、脳死問題だったと思います。脳死の問題から宗教が医療に関わるようになったのですが、日本の場合、キリスト教と違って、仏教が最先端医療とか、今回の特定胚のような最先端研究をチェックしていて、これはいけないのだ、やってはいけないのだ、といった世論をリードするような意見を仏教界あるいは宗教界から出すことは、まずありません。意見を求められたら、言います。だけど、これが日本のややこしいところで、こういう委員会に出てきて発言した意見がそのまま地元の寺や神社で語られるかといったら、これが断絶しています。委員会レベルの公的な発言と、日常の宗教活動が切れてしまっている。だから、意見として集めることはできるけど、それが即、一番底辺の日本的宗教土壌を変える方向に動いたかというと、動いてない。ここに深刻な問題があるような気がします。

ここで、最初に述べた宗教土壌へ戻ります。キリスト教の場合は、教会ないしは教会附属の研究所、あるいは神学者などが、オピニオンリーダーとして、キリスト教として、これはいけない・いいということを積極的に発言してきた。それに対して、日本ではその点が消極的である。じゃあ日本の宗教倫理というのはないのかというと、宗教土壌という非常につかみにくい、神に対するものではない。ただし、これが何に権威付けられているかというのは、私も実はまだ説明し切れておりません。ただ、明らかに、先ほど八代先生の配布資料を見せていただいたのですが、日本人は科学に対して比較的好意的で、科学の進展に肯定的です。そして、倫理観に関して、キメラなどに対して、気持ちが悪いから、それはやらなくていいという意見が多いと思います。けれど、倫理的な善悪について聞かれたら、それには答えられないのが日本人ではないか。これが、不十分ですけれども、今のところの私の説明です。

【高坂主査】 どうもありがとうございました。久しぶりに、大学で講義を受けているような気分で伺っておりました。個人的には、非常に興味深いお話だったと思います。
今のお話に対して、何か、御質問、あるいはコメント等ございますでしょうか、委員の皆様。
どうぞ。

【髙山主査代理】 私は法学が専門でございまして、きょうはもっと専門の近い永水委員が御欠席で大変残念なのですが、私の専門に近いところですと、家族法とか法社会学の研究者たちは、きょうの先生のお話については、非常に納得ができて、分かりやすいというふうに受け止めるのではないかなと思うのですね。きょうの先生の御説明のような考え方・分析を前提に、法的なルールを作っていく、あるいはそれを踏まえて考えていくということが十分に有用なのではないかと思うのですけれども、先生の御分析ですとか、あるいはキタガワ先生のようなお立場は、宗教学の分野からすると割と少数派ということになるのかというのと、もしそうだとすると、法律家の方ではこういう考え方は支持できるというふうに考えていても、宗教界、キリスト教の方はむしろ欧米の考え方に近いと思うので余り違和感がないと思うのですけれども、仏教とか神道のところから反対論が出てきてしまうということはないのかというのが心配です。私としては、先生が今おっしゃったような、気持ち悪いという理由で研究がストップさせられてしまうという事態は是非避けたいという。正しいか、正しくないのか、あるいは、小さい悪があっても、もっと大きな、人類の救済のために研究を進めようというような利益衡量の考え方もあると思っていますので、そのあたりがうまく明確に分析されながら議論が進められるのかなというのが気になるのですけれども、先生のお立場からの御印象をお願いします。

【小田教授】 このように説明すると、ある程度、宗教学の研究者は納得してくれます。けれど、仏教界や神道の宗教家たちは、お互いを知らない、知ろうとしないみたいなところがあります。むしろ、初詣と葬式をやっている多くの日本人が、納得してくれるのではないかと、私は考えています。ただ、仏教の研究者によっては、神道の影響について、必ずしもこれで納得せず、日本はもっと仏教的だと、説明をする場合があるかもしれません。そういう懸念を感じます。日本の場合、今言われたような、大きな問題に関して、私は教育によって理解を変えることは可能だと思います。だから、そういう可能性は開かれていると考えております。ただ、ベースに宗教土壌というものがあることをある程度知っておくことは大事ではないと思って、お話ししました。

【髙山主査代理】 ありがとうございます。

【佐々木委員】 集合胚の話からちょっと外れて、私、実験動物が専門なのですが、今、実験動物というのは、欧米でも、3R、4Rと言われていて、むやみに殺さないとか、数を減らすとか、動物に苦痛を与えないとか、そして、いろんなコミュニティからの承認というか、きちんとレビューを受けるというようなことを言われて、きちんとそういうことがなされていて、日本もそれと同じようにやっておりますけれども、そもそもキリスト教で、動物は魂もないし、信仰もないからという、その考え方から大分違うのではないかと思うのですけれども、そのあたりは、近代になって仏教とかも、いろんな国が交じり合って変ってきているのか。というのは、実験動物の各国の規制を見ていますと、日本人は割と動物を殺さない方向で生かせようと思うことが多いのですけれども、海外だと、苦しいのはかわいそうだから安楽殺が基本です。ふだんから、宗教的・文化的バックグラウンドでみんなの考え方が違うのに、今のところ欧米の考え方にみんなが追従しているというところはちょっとどうなのかなと思っていることがありまして、欧米でキリスト教のそういった考え方が、3Rにもあらわれているように、変ってきているということがあるのでしょうか。

【小田教授】 確かに、欧米の方の、人間と動物は違うという考え方は、一本通っているような気はします。環境問題などが出てくる中で、人間の責任、自然に対する責任が、動物に対しても求められるのではないか。あるいは、非常に残酷な実験が行われる場合、キリスト教では、人間の倫理、責任の範囲で、動物をどう扱うかというふうに問題にする。日本人は、人間が倫理的にどう扱うかよりも、動物がかわいそうみたいに、動物も一人の相手のような、そういう同一視的なところから問題にしている。そのように、見方としては違っているような気がします。

【高坂主査】 どうぞ。

【石原委員】 私は産婦人科医ですが、生命倫理の講義などをさせられることもあります。きょう、お話を伺いまして、とても参考になったお話で、一つお伺いしたいのは、様々な考え方であるとか、思想の多様性、あるいは個人差のようなものについての許容度というのは、私は、一神教よりも多神教の方がむしろ高そうな気が前はしていたのですが、きょうのお話を伺いますと、日本の場合は、そうではなくて、全てが気持ち悪いかどうかというような点で決まるのだとのことです。私が感じていたような、我が国における多様な考え方の受け入れに対する幻想というのはもしかすると間違っていたのかなあという気が少ししました。先生のお立場では、多様性の許容度につきまして、宗教的な日本の、他国と少し変わった状況というのがどのように与えているのか、お教えくださるでしょうか。

【小田教授】 日本的宗教土壌という言葉を使ったのは、この宗教土壌を許容する限り、日本人は非常に寛容です。ただ、一旦、天皇を崇拝しないと言ったり、あるいは日本人として、例えばムスリムなんかが入ってきて、あれは食べない、これは食べない、この時間はだめだ、一緒に行動できないと主張したとき、日本人は非常に異質に感じて、排除が働くと思います。ですから、日本的宗教土壌を容認するものは、新宗教でも成立します。でも、根本的にキリスト教は、天皇崇拝は嫌だというところがある限り、どこか浸透しない。最初に言ったように、キリスト教の方が酸性土壌と思っているところはあるわけです。その点で、決して寛容ではないことに気が付くべきだと思っております。

【石原委員】 ありがとうございました。

【高坂主査】 浅井委員。

【浅井委員】 一般内科をしながら医療倫理の研究をしている者なのですが、大変面白い話をありがとうございました。

1点なのですが、人間の尊厳というのが、この委員会でもすごくキーワードになっていると思うのですね。キリスト教ではそれなりに人間の尊厳とはっていろいろあったと思うのですが、我が国の神道、仏教、儒教もそうですが、そういったところで人間の尊厳と言った場合には、具体的にはどういった意味になるのか、もし分かれば、教えていただきたいと思います。

【小田教授】 人間の尊厳という言葉自体が、生命の尊厳でクオリティー・オブ・ライフとか、ああいうときに、訳語がもう一つ日本人にぴたっと来てないというのが、正直なところだと思うのです。尊厳という言葉自体がよそ行きの言葉で、日本人にとって、人間の尊厳とか、人権の尊厳とか、生命の尊厳と言ったとき、モードがよそ行きモードになってしまって、日常の中で尊厳って一体何なのかとなると、ぱっと答えられないというのが、現実ではないかと思っています。だから、尊厳として議論をしている限り、日常から一歩上がったところで議論がされている。日本の宗教土壌的な日常的な感覚のレベルへ落としてきたとき、尊厳は意外と分かりにくい。お互いを大事にするとか、いたわるとかいうことなら、分かる。だけど、尊厳という言葉は、いたわりだけではなく、正義的のようなものを含むはずです。もう少し原則的なものがキリスト教だったら入るわけです。終末期医療などでの命の尊厳や命の質と言われるときに、訳しにくい、訳しきれていない問題がまだ残されているような気がします。何だということは言えないのですが、ずれが生じているような気が、私にはしております。

【高坂主査】 時間が押しておるのですが、私の方から一つだけ、御質問をさせてください。要するに、動物性集合胚の目的としては、現在認められているのは、人間の臓器を作って移植をしたいという、そういった基礎的研究であれば一応許容されているということなのですが、それを更に、薬を創っていくとか、あるいは、かなり基礎的なのですが、幹細胞がどういうふうに分化をして、どういった場所に行くのだろうかという基礎的な研究も含めて、少し研究の枠を広げていいのではないかということで、これまではずっと科学的なデメリットとメリットを討論してきたのですね。それについてパブリックコメントをさせていただいたら、今、先生がおっしゃった、気持ちが悪いとか、あるいは動物がかわいそうであるとか、そういった類いのパブリックコメントが非常に多くて、我々はそういった方々に対して、じゃあ研究をやめますよと言えばいいのか、あるいは、それをどう説得して更に進めていけばいいか、非常に悩んでいるところだったのですね。先生のお立場からして、例えば、ちょっと言葉は悪いですけど、気持ち悪いというようなコメントを出していただいているような方々に、どう真面目に我々は説明をしていけばいいのかなという手段を、先生、何かお考えがあったら、教えていただきたいのですが。

【小田教授】 私は、日本人の教育程度はすごく高いので、きちんと科学者が、こういう倫理を守って、こういう意味でこういう役に立つし、こういう危険性があるけれども、これに関してはこういう歯止めを持っているという説明を、啓蒙きちんと啓蒙していけば、受け入れられる可能性はかなりあると思います。その素地はあります。ただ、気持ちが悪いという、一番たちの悪い反応が出てしまうので、そこのところは啓蒙啓蒙という形で科学者の方がそれこそ誠実に向き合う。誠実さがあることによって、その誠実さに対して、日本人は好意的に受け止めるというふうに考えます。

【高坂主査】 ありがとうございました。最後に、大変すばらしいお言葉を頂いたと思います。

それでは、時間が参りましたので、次のプレゼンに参りたいと思います。次は、八代准教授の方から、プレゼンをしていただきたいと思います。八代先生は、現在、京都大学の iPS細胞研究所の准教授をされていらっしゃいます。御専門は、科学技術社会論、幹細胞生物学で、造血幹細胞研究で学位を取得されていらっしゃいます。その後、再生医療分野の倫理的・社会的・法的課題や、再生医療を一般国民に紹介する科学コミュニケーションの研究といったものに発展していらっしゃいます。本日は、動物性集合胚を用いた研究に関する一般社会への意識調査の結果などをお話ししていただけるというふうに伺っております。

八代先生、どうぞよろしくお願いいたします。

【八代特定准教授】 高坂先生、御紹介ありがとうございました。京都大学iPS細胞研究所の八代でございます。本日は、このような発表の場を与えていただきまして、高坂先生はじめ、皆様に感謝をいたします。

きょうは、今お話しいただきましたように、「社会調査などに見る「ヒト動物キメラ」への一般社会の態度について」ということで、お話をさせていただきます。くしくも冒頭、8 月4日のNIHの方針の変換についてということでお話がありましたけど、ちょうど私どものヒト-動物キメラの社会調査というものも8月4日付けの『Cell Stem Cell』誌に掲載をされましております。きょうお話しする内容としましては、今回『Cell Stem Cell』誌に発表しました内容、それから、私がこれまで行ってきたようなサブカルチャー研究等も含めて、一般社会でヒト-動物キメラがどのように見られているかということについて、お話をさせていただこうと思います。

この社会調査を行いました背景といたしまして何がありましたかというと、文部科学省が実施されているリスクコミュニケーションにモデル形成事業というものがありまして、文科省が策定している「リスクコミュニケーションの推進方策」という、アカデミアが社会に対して自分たちが行っている研究のリスクイメージ等をきちんと説明しなさいという事業がありまして、そこの事業として、再生医療学会が、「社会と歩む再生医療のためのリテラシー構築事業」という形で、5年間の事業を採択されております。私がこちらの方の実施責任者をさせていただいておりますので、その中で、再生医療研究に対する社会からの信頼を獲得するためには社会のニーズというのを知ることがあるだろうということで、社会調査を実施いたしました。

目的としては、主にこの三つでありまして、再生医療をめぐる社会的・制度的側面やコミュニケーションについて、一般の人々と再生医療分野の研究者の間の認識の相違を見ると。知りたいことと伝えたいことの間にはずれがあるのではないかということを見ようというのが一つの目的であり、一般の人々が再生医療を報じるメディア等をどう見ているか、研究者側がメディアをどう捉えているかということを聞きたいということをやりました。それから、再生医療分野の研究者における、コミュニケーションを行うときの障壁は何かあるか、自分たちが積極的にできないことは何かあるかといったことを聞いています。本日お話しするのは、一番の目的である研究者と一般の意識の違い、それから、2のお話についても少しだけ触れますけれども、1の目的に基づいて行った研究の内容になっております。

質問紙の内容をざっと書いてあります。配付資料の方にも入っておりますので御覧いただければと思いますけれども、このような質問紙の内容で、知りたいことが一般モニター・社会の方、伝えたいことが研究者ということで、再生医療について様々なことを聞いております。この中で重要として聞いている中の一つが、動物性集合胚をめぐる認識はどうなのかということがその中の質問項目に入っておりまして、その理由といたしましては、2010 年に中内先生たちが、ラットとマウスを使った実験によって、動物性集合胚を作ることによって特定の臓器を作ることができる、胚盤胞補完法ということが可能であるということの原理を示したということから、臓器のリソースとして、再生医療のリソースとして、一般の皆さんはどう思いますか、研究者の側はどう伝えたいと思いますか、というようなことを聞くということを行ったわけであります。動物性集合胚を作成するということについては、ヒトiPS細胞を作って、動物の中にiPS細胞を入れる、それによって臓器ニッチの中で臓器が作られてくるというのが、中内先生たちの唱えている話でありますが、臓器のリソースとなるだけではなくて、臓器を作成するということは生命科学の研究で様々なメリットがあるということで、個人的には今後進めていくのが望ましいと考えておりますけれども、様々な科学的な知見をもたらすから、といって研究をどんどん進めるのではなく、一般社会がどのように考えているかということを把握していくことは極めて重要と考えました。

質問紙の概要としてはスライドの通りですが、再生医療学会の会員に対して一般的な知識を問うのは変なことなので、こちらの設問に関しては一般市民を対象にして聞いているものであります。再生医療研究の推進に関して、2015年はリスクコミュニケーションの事業で聞いておりますけど、それ以前のデータ、2012年には私が研究分担者だった再生医療の実現化ハイウェイ事業の倫理課題Dというところで行った調査で、同様の設問を同様の対象に対して質問しておりますので、追跡調査という形になっています。推進に関してのイメージですが、2015年、2012年、どちらに関しても非常に高い数値を示しておりまして、2012年も2015年も7割以上の人が再生医療の研究の推進に関しては支持をするという形の答えをしている。また再生医療研究にサンプルを提供することに関しても、2012年は53%の人が同意をすると言っていたのが、2015年になると60%ということで、こちらに関しては数字がかなり伸びているということで、再生医療研究に主体的に関わろうと考えている人は増えていることが見てとれます。2002年当時に内閣府が行った調査におきましては、再生医療研究に対して、「考えたことがある」という人が11.3%、「名前・内容はなんとなく知っている」という人が21.7%、「言葉は見聞きしたが内容はわからない」という形で数字が出ておりますけれども、こういうような状況から比べますと、再生医療研究というものに対して、非常に理解が深まっている、認知度が高まったというふうに思います。1999 年に生命倫理調査会等でも調査されていますけれども、それらの調査と比較しましても、市民の態度は再生医療研究の推進、サンプル提供に関しては非常に積極的になっているというのが見てとることができます。

ただ、このように非常に、再生医療研究の支持としては高まっている、あるいはサンプル提供の意向としては高まっているのに対して、臓器を作成する目的でのヒト-動物キメラの胚作成をどう考えますかという設問になりますと、やはりこれが変ってきます。このときの設問の内容としましては、「臓器移植に用いる臓器が不足しているため、動物の受精卵に人の細胞を組み込んで、「人間の臓器を持つ動物」を人工的に作り出そうとする研究計画があるとします」という説明文を一般の人向けには付記しています。これを踏まえた上で、「上記の「人間の臓器を持つ動物を作り出すこと」について、あなたはどう思いますか」という形の設問をしています。選択肢は四つでありまして、下に書いてありますが、その中で一個を選択しろという形にしています。これは、2012年、2015年、両方で専門家と非専門家に聞いておりますけれども、2012年のときには、賛成すると答えた人は、3割満たない、25%前後であったのに対して、2015年になりますと22%程度ということで、わずかに減少はしています。ただ、数字の比率としては、ほとんど変っていない。「許されるべきではない」と考える人が、45.4%、49.0%ということで、こちらは伸びているという形になっておりますので、どちらかといえばネガティブな印象が高まっているのかなあというふうにも捉えられます。

こちらは、再生医療学会の会員を対象にした調査。2012年当時は、40.5%が「許される」、31.3%が「生物の種類によっては」ということで、7割ぐらいが賛成だったのですが、2015 年になりますと、これがちょっと減少しています。両方合わせまして、54%、55%程度になるでしょうか、という形になっていて、「許されるべきではない」という人が少し伸びているという形になっています。

この背景はいろいろ考えられますけれども、再生医療学会は2012年から2015年にかけていろいろ変革がありまして、例えば認定医制度が導入されるということがあって、臨床医の先生方が非常に多く加入されました。2012年当時は3,400人ぐらいの会員数であったのが、現在は5,000人を超え、非常に会員数が伸びているということから、賛成に対する比率が変わった可能性がありますし、それ以外に、iPS細胞と動物性集合胚を使った臓器再建以外の選択肢、例えばバイオマテリアルや3Dプリンタ等の研究の進捗ということもありますので、他の選択肢が取り得ると考える研究者が増えたという可能性も、当然存在すると思います。ただ、専門家と非専門家を比較しますと、やはりダブルスコアに近い数字で、受容度が違う、許されないと考える人の数が違うという形は出ているということがあります。 一つ、よく指摘される話として、「キメラ」という言葉によって、ネガティブなイメージに引っ張られるのではないかという話もありますが、今回の設問の中では「キメラ」という言葉は一切使っていないということは、御留意いただければと思います。

次の設問ですが、ヒト-動物キメラ作成が許されない、つまり、先ほどの設問で「生物の種類によっては許される」というふうに答えている人がいますので、じゃあどれだったらだめなのかという形で聞いています。「許されない」と考える数字を聞いているのですけれども、実は、特出してどれがだめという形ではなくて、どれもほとんど同じぐらいの数字になっています。「どの種も問題は感じない」という人は3割ぐらいではありますけれども、選択肢はサル、ブタ、イヌ、マウス、ウシという形で、よく実験に使われたり、それから霊長類として規制されるものが入っているわけですが、この手の議論で問題になるサルが際立って高いわけではない。むしろ市民より研究者の方がサルなんかに対しては問題意識が高いというような、数字のデータとして出ております。

このような背景があるわけですけれども、ほかのところで文化的な素養として考えてみたらどうなのかというところなのですが、ここら辺からサブカルチャー的な話になっていきますけれども、例えば、1859年、チャールズ・ダーウィンが『種の起源』というものを著したことによって、いわゆる進化論というのが世に出ました。そのときに、人間は神につくられたものとして特権的なものだというふうにキリスト教で規定されてきた、そうした宗教規範、価値的な規範が、科学的なほうから、実はそうではないと提唱され、価値観が揺らぐということが起こりました。

その結果、何が生まれてきたかというと、1896年、H.G.ウェルズという「SFの父」と呼ばれる作家ですが、この人が著した作品、『モロー博士の島』という作品がありまして、これは、南の島で学界から追放された研究者が動物実験を行っていて、そこで研究者が、動物から人間を作り出す、動物を人間に進化させようとする研究をしているということが書かれています。その島に流れ着いた船員が島の様子を見聞きして、ロンドンに帰ってきてそれを報告したという体裁のお話になんですが、このお話というのも、ダーウィンが論文として報告したガラパゴスを想起させるような舞台設定になっています。やはり科学は動物と人間が地続きであるものとしたいのだと。そして動物がいかにもすぐに人間に進化してしまうかもしれない、人間が動物に退化するかもしれない地続きのものなのだということが人の心を非常に強く揺さぶる作品の描かれ方になっています。この背景にはやはり、ニーチェの『アンチキリスト』とか『この人を見よ』というところで「神は死んだ」というような書き方がされていますけれども、こうした形で、宗教的価値観というか、どんどん人間が動物と同じものだと相対化させられる傾向にあった中での、人々の心理的抵抗の現れかなと思われます。

こういう話を見ますと、動物を人間に進化させようという、いわゆるマッドサイエンス的なものというものが、キメラマウスですとか、あるいは生殖細胞をiPS細胞から作ろうというような動きに対する、科学に対するイメージと、いまだに地続きとなっている、そうした源流のようなものが既に見てとれると考えています。

現在、グーグルの画像検索という機能がありますが、そこにHuman animal chimeraという形で、文字を打ち込んで検索をしますと、このようにヒトと動物が混じったような像というものがたくさん出てきて、いわゆるキメラの動物というところから思い浮かぶものがたくさん出てくる、こういう画像のコラージュを作っている人がたくさんいるということがわかります。ただ、こういうふうに動物とヒトの要素が渾然一体となって混じり合うイメージのものが描かれているのですけど、科学的に考えると、これはキメラじゃなくてハイブリッド(雑種)だよね、と思うのですが、一般の人たちにとってはキメラとハイブリッドの違いはよく分かっていないのだろうな、というのは、こういうところからもうかがい知ることができます。

日本でも生命科学に対する危惧が現れた作品は多く存在していまして、近年人気になったものですと、これは漫画ですけれども、『鋼の錬金術師』という作品があります。日本だけじゃなくて、海外でも非常に大きくヒットしていて、英語版、ドイツ語版、非常に多くの言葉に翻訳をされて非常に売れていると。日本でも、数度にわたって、映画化ですとか、テレビアニメ化もされています。この作品というのは、タイトルのとおり、錬金術というものをギミックに使っているわけですが、錬金術というのはとりもなおさず、科学の先祖とよく言われているものの一つです。

この主人公のお父さんの名前というのは、歴史的にヒトを人工的に作り出したと言われているパラケルススという人物がいるのですが、その人の名前からとられている名前になっています。鋼の錬金術師を描いている作者というのは、実は北海道の農業高校の出身で、しかも畜産科に在籍した経歴を持ち、高校当時から、ウシのクローンの作成ですとか、人工授精ですとか、家畜での生殖技術について勉強した経歴を持っています。この作品の主人公のお母さんというのは実は病気で若死にしてしまうのですけれども、早死にしてしまったお母さんを錬金術によって生き返らせてやろうという、この世界においても生命を作り出すということはタブーなのですけれども、主人公たちが錬金術、つまりテクノロジーによってそのタブーを侵してしまったり、そのほかにもES細胞を思わせるようなモチーフのギミックがたくさん出てくるのですが、そういうところから見ると、この『鋼の錬金術師』というのは現在の生命科学、中でも再生医療的なものに対する問題意識を底流に持っている作品と捉えることができます。

この中で、幾つかある中での要素を一つ御紹介しますと、ショウ・タッカーという人物が登場します。この作品世界において、錬金術は、国がやっている、国が振興しているものでありまして、国が振興するに当たって、研究が進まない、役に立たないと国からの研究資金が打ち切られてしまうという、どこかで聞いたような話があります。タッカーは研究の査定に間に合わせるために、自分がやっている、人語を解する、ヒトの能力を持った動物を作るという研究が進展しているように見せ掛けるために、自分の娘と自分の愛犬をかけ合わせる術を使って、イヌと娘がかけ合わされたような、こういう動物を作ってしまう、キメラを作ってしまう、というエピソードがあるのです。こういうところには、マッドサイエンス的な、科学者に対する不信が反復しているかなあというような像としても見ることができますし、キメラというものが持つタブー性というものについても浮かんできます。

このタッカーのキメラというのは、先ほどのグーグル検索でも出しましたように、一般の人が考えているような、ヒトと動物が混じり合った化け物として描かれていますし、これは、ほかの国に行きましても、オーストラリアのアーティストでパトリシア・ピッチーニーニという人がいますが、これはよくこういうときの説明として出てきますけれども、こうした、動物か、イヌか、ヒトか、ブタか、よく分からないような、新たな生命が生まれてくる作品をよく作っています。

こうした背景、先ほどのウェルズはイギリスの作家でしたけれども、イギリスにおいてキメラの意識調査ということが行われており、人間のような外見を持った、脳や生殖機能を持った動物の作成ということについて、非常に懸念が持たれているということが明らかになっています。先ほど小田先生の方からも啓蒙というお話がありましたけれども、啓蒙よくエピソードの中で描かれる動物かヒトかよく分からないような獣ではなくて、実際にキメラというものを作成した場合には、これは中内先生から頂いた写真ですけれども、マウスの受精卵にラットのiPS細胞をインジェクションしても、両方が混じったような形態になるわけではなくて、大きさとしてはマウスですし、外見としてもマウスとほぼ変わらない。一部の毛色だけがラット由来になるという形。これは逆にラットの受精卵にマウスの iPS細胞を入れたやつですけれども、これも同様であって、全体のフェノタイプとしては、レシピエントとなった受精卵の方があらわれるというのが、科学的には言えるのです。 サブカルチャーでの生命への介入のイメージというと、フランケンシュタインの怪物というのが文学としてのSFジャンルの創始、と教科書的に言われてますけれども、フランシス・フクヤマという有名な政治学者は、バイオテクノロジーの利用というのはこれ以上やるべきではないと言っています。先ほど小田先生もお話しされていましたけれども、尊厳ですとか、そういうところにつながる言葉でありますが、人間性の喪失を招く結果になるため、やめるべきであるというふうに言っています。ただ、こうしたことに対して、バーナード・ロリンは、遺伝子操作に対する疑念なんて、人間性の喪失につながるわけじゃない、と。そして、研究者も別に無秩序に科学研究をしようとしているわけではないというところから、フクヤマのような態度をフランケンシュタイン症候群だというような形でやゆしています。ただ、一般的には、科学者は何をするか分からない、それから、自分たちの常識とかけ離れた生命を創り出そうとしているのではないかというような、何となく漠然とした不安というのはやはり、科学というものが人間に近い世界にあらわれたときから、科学者ではない人々の心のなかにたちあらわれているのではないかというふうに考えています。

もう一つ、啓蒙啓蒙に関連する話になりますけれども、我々はヒト胚を用いる研究についての態度の推移ということについても調査を行っています。1999年、これは我々の調査じゃなくて、それに先行する生命倫理調査会で行われた調査、あるいは内閣府なんかで行った調査を基にしていますけれども、この当時、ヒト胚を用いる研究について、「よい」と答える、あるいは「場合によってはよい」と答える人というのは、両方合わせても50%に満たなかったわけですが、我々が調査を行った2012年になりますと、この割合というのが50%を超えてきます。60%ぐらいの人が、ヒト胚を用いる研究はやっていいよというような形で答えています。当然、研究者が考えているほどの数字には遠いわけではありますけれども、ただ、20年近い時間をかけて、そのパーセンテージというのが伸びてきているという形になっています。実際に社会の流れを見ましても、指針で、ES細胞の使用の二重審査の廃止ですとか、あるいは様々な形でES細胞から樹立する研究の手続というのが新たに追加されるという形で、要件というのは緩和をされています。そういうところから見ますと、新聞・マスメディアの報道、あるいは研究者の情報発信なんかの形で社会との関係を構築しようというふうに研究者側が努めてきたことによって、社会の受容度というのが高まって、指針等も緩和される傾向が出てきたのではないかというふうに見てとれます。 ただ、再生医療研究の報道に対する、一般モニター、一般の市民が考える意識と研究者が考える意識というのは実は随分相違があります。モニターの調査では、世の中に氾濫している再生医療に関する情報の中から、メディアが必ずしも正しいとは思っていないし、人々は適切なものを取捨選択している、つまり、ある程度、内容について吟味していますよと考えている人がそれなりにいるのですけれども、一般の研究者になりますと、再生医療に対するメディアの情報はセンセーショナルに誇張されているし、一般の人々はそれをうのみにしているという形で、メディアの情報にも一般の情報の受け取り方についても信頼をしていないという形で、残念ながらそごがあらわれています。

そのことが一般の研究者がメディアに対しての情報発信をしても無駄であるというふうに考えてしまうような源泉の一つになっているのですけれども、その中で反面教師として再生医療学会あるいは再生医療研究者が考えていかなければいけないところとしては、北海道における遺伝子改変作物をめぐる議論というのがありまして、これは共同研究者の成城大学の標葉先生のお仕事ですが、1980年当時から1990年代の半ばぐらいまでは、主要な新聞に遺伝子改変技術が取り上げられる場合というのは、産業応用、医療応用への期待というのが記事の内容としては高かったわけです。しかし実際にモンサント社などが遺伝子改変作物の栽培を始める段になると、欧米での論調を受けて、不安ですとか、そういうものをかきたてるような紙面構成が多くなってきてしまうという状況があった。そして北海道において遺伝子改変作物を栽培する場合の条例というのが制定されるのですが、この内容というのが非常に厳しいものになっていまして、遺伝子改変作物を栽培するための条例というよりは、むしろ作らせないための条例に近い内容になってしまっていました。ここで条例が策定された後は記事件数というのはどんどん減っていって、社会からの関心が失われていったという流れがあります。

そのようにして実際に厳しい条例ができてしまってから、遺伝子改変作物に関係する研究者の団体が何団体か共同で声明を出しています。つまり、一番重要な時期に情報発信をせずに、手後れになってしまってから話をしてしまうと。社会から一番視点を向けられているときにすれ違いが起こってしまうことによって、社会に対して適切な情報発信ができなかったというようなことになってしまったわけです。

こうしたところで、まとめになりますけれども、基本的に、一般市民というのは再生医療研究の推進には積極的でありまして、自分たちの細胞をサンプルとして提供することに対しても協力的であります。キメラ動物を使った研究というのは科学の進歩においても有用であり、再生医療研究の成熟のためにも必要であることは間違いありませんが、その認識については、研究者と一般市民との間で大きな意識の隔たりがあるということが明らかになっています。そうした意識の隔たりを埋めて、科学への不信感というものを払拭するということのために、やはり研究者側は積極的に情報を発信し、正確な知識の普及を図るとともに、社会との継続的な議論を行うということが必要になってくる。つまり、あいつらが言っていることは、気には食わないけれども、うそは言っていないであろうと、相互に信頼をし合う、信用を確立するということが、一つ重要になってくるのではないかというふうに考えております。

今回の発表に関しては、こちらの皆様の御協力を頂きました。
御清聴、どうもありがとうございました。

【高坂主査】 ありがとうございました。
それでは、今のプレゼンに……。どうぞ。

【浅井委員】 大変貴重な御講演、ありがとうございました。9枚目のスライドで一般の方のキメラ作成への態度があって、研究者の方に比べると余り肯定的じゃないということだったのですが、その理由をもし分かればと。つまり、動物が人間になってしまうかもしれないから嫌なのか、それとも、種を混ぜるから嫌なのか、どういった理由で反対をしていることが多いのか、教えていただければと思います。

【八代特定准教授】 御質問、ありがとうございます。こちらに関しては、難しいところがありますが、こちらの図でも示しているとおり、どの動物がだめだという形で明確に拒否反応を示していることではないというのが1点ありますし、それから、先ほど高坂先生の方からもありましたけれども、何となく嫌だということがパブコメでも多いというところに出てきています。ですので、何がだめだというよりは、自分たちが知っている生命でないものが生まれてくる可能性ということに対する違和感。つまり、何となく気持ちが悪いというようなところが、やはり一番強いのではないかというふうに考えています。

【高坂主査】 以前、成城大学の標葉先生にも同様なお話をしていただいたことがあるのですが、私も非常に不可解だったのは、研究者で動物性集合胚に対して批判的な方も結構いらっしゃるということなのですが、研究者の方はどういう理由でこれを反対していらっしゃるのですか。

【八代特定准教授】 一つは、治療目的での臓器の作出という形に限定をかけてしまうと、先ほども申し上げましたように、例えば、バイオマテリアルの研究の進展ということもありますし、そのほかだと脱細胞化の技術等も出てきているというところから、オルタナティブがほかにもあるじゃないかと考えている人がある程度増えたのだろうということも言えると思いますし、それから、先ほど言いましたように、より患者さんに近いところにいる会員が増えたということによって、考え方の構成比が少し変わったということもあるかなというふうに考えています。

【高坂主査】 そこに、臓器を作るという目的だけではなくて、さっき言った、例えばモデル動物で創薬の研究に資するというような、そういった項目が入ってくると少し回答が変ってくる可能性もあるということなのでしょうか。

【八代特定准教授】 そうですね。一般の研究者の方、一般の臨床医も含めてですけれども、動物を作るときに他の細胞が混入してくるということも当然頭の中に入っていると思いますので、そういうことであれば、モデル動物としての重要性ですとか、発生学的な研究の重要性というものをまず前提に置くと、かなり変ってくるのではないかというふうには思います。

【高坂主査】 ほかにいかがでしょうか。どうぞ。

【知野委員】 ありがとうございます。私はマスメディアで働く者なのですけど、質問を。 まず、18ページの一番下の質問のところで、人々は大げさなメディア報道をそのまま信じたりはしないという御質問をされていますけれども、この「大げさな」というのは、ネガティブな意味でお聞きになられたのでしょうか。「大げさ」なというのは、今すぐ薬ができて人の役に立つとか、バラ色の未来みたいな、そっちの方の意味合いもあると思うのです。どちらでお聞きになられたのでしょうか。

【八代特定准教授】 この場合は、あえて両方の意味ということで、ポジティブ、ネガティブ、どちらかというようなベクトルは考えておらず、メディアが書いたことは、ポジティブなものでも、ネガティブなものでも過剰に書くというのが、研究者側がよく持っているメディアに対する不信感の一つであります。ここの、例えば、バランスがとれているとか、客観的であるというのは、そういうところの話になりますが、そういうふうなものではなくて、あおり立てるような、ポジでも、ネガでも、あおるような記事というのをメディアは書いているから、それに対してどう思うかという形での質問意図になっています。

【知野委員】 分かりました。じゃあ、今すぐ私たちにとって役に立つものができるとか、そういうふうに思っているわけではないという、そういう答えも含んでいるということですね。

【八代特定准教授】 そうですね。一般の方々の回答からは、自分たちはそこまでは信じていませんよみたいなところがあると思うのですけれども、ただ、これは、我々のグループじゃなくて、カナダのグループの研究ですけれども、そもそも研究者の側あるいは研究機関がリリースをするプレスリリースの内容自体に、ピアレビューで書かれていた論文の内容よりも、誇張する内容が多くなっているということを言っている報告もありますので、こちらはどちらかというと、研究者が相手のことを批判するだけじゃなくて、自分たちも反省するべきじゃないのという意味も込めての設問ではあります。

【知野委員】 分かりました。

それと、先ほど来、気持ちが悪いということが取り上げられています。ただ、一般の人がそう答えるのは、普通のことではないかなと思います。というのは、善か悪か判断しろと言われても、知識を持ち合わせていないと、どう聞いていいか分からないなど、、そういうことがあると思います。その中で、科学者が誠心誠意でコミュニケーションしていくというお話がありましたけれども、このコミュニケーションという場合に、私たちはこう思うし、こうだし、それを学んでほしいという話にどうしてもなっていくのだと思うのですけれども、そうではなくて、納得してもらうとか、あるいは、至らないところがあるということも含めて理解してもらうとか、今までもリスクコミュニケーションというのは随分重要だと言われて、かなりやってきていますが、これから、どのようにしていくのが、どういうやり方をとっていくのが望ましいと、先生はお考えでしょうか。

【八代特定准教授】 こういう問題に関しては、国民、一般の市民、全員が納得をするということというのは、絶対にあり得ないというふうに考えています。ですから、分かってくれという形というよりは、自分たちがやっていることを、きちんと状況を提示する。つまり、論文とか、特許とか、いろんな問題がありますので、常に包み隠さずというわけにはいかないのですけれども、少なくとも自分たちがやっていることを、きちんと透明性を確保して、知りたいと思ったときにアクセスできるというようなものを必ず用意しておくということによって、相手側からの異議申立てというものも、感情論だけでなくて、それぞれそうなのだろうけれども、どうなのだという形で、相互理解の下に成立するような議論を行っていけるような体制を作っていかなければいけないだろうというふうに思っています。ですので、みんながだめだと言っているような気がするからやらないということじゃなくて、科学的に有意義なものであるから、やることはやる、責任を持ってやるけれども、皆さんが感じているような違和感というのは、こういう形できちんと対処をしてやっています。こういう形で研究を進めていきます。御意見があれば、ディスカッションをして、研究者の側でも不合理だと思うことがあれば、止めますよ、聞く耳がありますよという姿勢というのをちゃんと示していく。その上での議論というのを継続的に行っていくということが重要だというふうに考えています。

【知野委員】 そうすると、今お考えの知りたいときにアクセスする場所というのは、各研究機関とか、大学とか、そういうところに設けていくという、そういうイメージでしょうか。

【八代特定准教授】 一番いいなあと思うのは、例えば、文部科学省ですとか、AMEDですとか、様々なファンディングエージェンシーがありますが、そこで行っている革新的な研究であれば、窓口はそこに作っておいて、そこから各研究所なり研究者へリンクを張るような形で、ある程度ポータル的なものがないと、アクセスがしづらいであろうと。かつて私も研究でやったことがあるのですけれども、例えば、インターネット上のblogで張られたリンクの解析をしたことがあるのですが、iPSという言葉を検索したときにどこに行くかということを調べると、大体、みんな、ヤフーのニュースのページにしか行かない。あるいは他のブログにしか行かない。研究所のホームページにダイレクトに行く人はほぼいないというような遷移データを調べたことがあります。そういうところからも、やはりある程度、アクセスするための窓口というのを明確化しておく必要性があるのではないかというふうに思っています。ですので、よく新聞記事なんかで、アサヒドッコムでも何でもそうなのですが、プレスリリースはここにありますよとか、そういうことって余りしていただけない。ですから、せっかく、今、インターネットという形で本人が望むところにページが遷移できますから、せめて記事の中で、インターネット版であれば、プレスリリースですとか、情報のリソースに対してアクセスできるようなものを設定していただけるといいかなというふうに考えています。

【知野委員】 そうですね。それも大事だと思いますし、あと、アクセスしても、当事者の当該研究機関とか、当該組織の説明は非常に難しくて、何を説明しているのか分からないということもあると思いますので、その辺は工夫も必要なのではないでしょうか。

【八代特定准教授】 そうですね。そういう意味では、きちんとした専門性の背景を持って、なおかつ社会に対して分かる言葉で書くことができる人間の育成、そういう人間のキャリアプランの醸成ということが必要になってくるのではないかというふうに思っています。

【高坂主査】 小田先生も、八代先生も、最後のまとめとして、正確な知識をきちっと普及していく、啓蒙していくことが非常に大事ですよというお話をされたと思います。そういう意味で、今のメディアもそういった啓蒙活動にとっては非常に大事な手段ですので、是非、メディアの方々も協力をしていただきたいなというふうに考えています。

実は、科学的な根拠というか、科学的な面からの動物性集合胚の在り方を、一般国民に分かりやすいパンフレットを我々は前半で作りまして、中学生か高校生でも分かるような、非常に安易なパンフレットを作って啓蒙しようと試みているのですが、あれは文部科学省のホームページに載せたのでしたっけ?

【杉江安全対策官】 「ライフサイエンスの広場」に掲載しております。

【高坂主査】 どのくらいアクセス数がありましたか。

【杉江安全対策官】 済みません、アクセス数の方はまだ勘定しておりません。

【高坂主査】 そうですか。何か反響とかありましたか、その後。

【杉江安全対策官】 今のところ、特に問い合わせはございません。

【高坂主査】 ああいう活動は地道に進めていくことが非常に大事なのだろうというふうに思いました。
どうぞ。

【三浦委員】 調査の中で、一般の人たちは、ウエブ上に載っていた、ああいう気持ちの悪い、まるで妖怪のようなキメラ動物があって、それが再生医療に適用されると思っている人が大半なのか。それとも、研究者が考えるように、もともとの動物の姿でヒト化した肝臓だけが応用されると思っているのか。どちらをイメージしているのかちょっと知りたいところですが、どうなのでしょうか。

【八代特定准教授】 再生医療とキメラ胚というものを直接つなぐ形のとり方がなかなかできないというのはあります。ただ、先ほどの図がありますが、これは絵をクリックすると元ページに飛ぶことができるのですが、そこの中では、こういうものを使った研究がなされようとしているみたいなことを書いているブログのようなものは散見されます。もう一つ、イメージとして強いのは、こうしたヒト-動物が混じったものもありますけど、いわゆるバカンティマウスですね。耳マウス、これのイメージがやっぱり今でも非常に強いというのはあります。ですので、こうした気持ち悪さというのと、キメラの気持ち悪さというのも、やはり通底するものはあるのかなと。これに関しても、よくある勘違いとして、動物を遺伝子改変することによって耳ができたというふうに思っている人が今でも少なからずいますので、やはりそうしたところもある意味情報発信をきちんとしていかないといけないかなと思います。

【三浦委員】 そうした思い違いをしているところも、結構重要なポイントじゃないかと思いました。

【高坂主査】 上から3段目の右から5番目の写真は先生じゃないかな?

【八代特定准教授】 上から?

【高坂主査】 上から3段目の右から5番目の、それ。

【八代特定准教授】 これは僕じゃないですね。僕はキメラじゃないので、大丈夫だと思います。

【小田教授】 どこがキメラなの?

【八代特定准教授】 これは多分、ブログが当たってしまうので、関連したページに入っちゃっているところを盛り込んじゃうというのが。

【高坂主査】 済みません、冗談でした。 それでは、この議題はここまでとさせていただきまして、次は、2番目の議事、ヒトES 細胞に関する指針の見直しについてといったところに入っていきたいと思います。

(以下略)

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